■「バーデンのモーツァルト」とアイスショコラーデ
いろいろと辛いこともあった2011年ですが、振り返ってみれば、シリーズ公演 "Reine pur" を始め、音楽的には実りの多い年となったように思います。ソロだけでなく、室内楽でも思いがけない発展があり、その双方が互いに良い刺激をもたらしてくれました。
「室内楽での発展」とは、世界的な名ヴァイオリニスト、エドゥアルト・メルクス教授に大変気に入っていただくことができ、彼が主宰する催しに出演できたこと――歴史の重みを感じさせる熱い音楽に導かれ、様々な編成の名曲に命を吹き込んでいくことは、チェリスト冥利に尽きる素敵な体験でした。
発端となったのは、ウィーンから約26km離れたバーデンのモーツァルト週間、「バーデンのモーツァルト」。私は8月23日のコンサートで、ウィーン国立音大のペーター・バルツァバ教授らと《ピアノ三重奏曲 変ロ長調》や《ピアノ四重奏曲 ト短調》を共演、21日のオープニング・セレモニーでも《ディヴェルティメント》(弦楽三重奏曲)のメヌエットを演奏しました。
バルツァバ教授の奏でるピアノはとても魅力的で、ウィーン生まれの彼がモーツァルトを "keck"(いなせな、おきゃんな)と形容していたのが印象的でした。一見単純そうなチェロ・パートにも、「深い愛情を込めて弾いているね!」と、絶えず繊細な耳を傾けてくださるのです。
モテット《アヴェ・ヴェルム・コルプス》を作曲したゆかりの地、バーデンを舞台としたモーツァルト週間は、講演つきの4つのコンサート、ロレット博物館の展示、モーツァルトの足跡を辿る散策が組み合わさった、非常に興味深いものでした。
ロレット博物館の展示品は、バーデンの胸像(微笑むモーツァルト)、ストックホルムの肖像画(やぶにらみのモーツァルト)、《魔笛》の自筆譜のファクシミリなどで、私自身もオープニング・セレモニーで訪れた折にゆっくりと鑑賞することができました。
ただ、この頃は記録的な猛暑続き……コンサート会場に早く着きすぎてしまった数分すらも外で待っているのが困難で、よろよろと近くのカフェに“避難”したのを覚えています。そこで飲んだアイスショコラーデ(ヴァニラアイスクリームとホイップクリームが乗った冷たいチョコレートドリンク)の美味しかったこと!
モーツァルト→チョコレートドリンクと来れば、オペラ《コジ・ファン・トゥッテ》の一場面が生き生きと思い出されます。女中デスピーナが「チョコレートを苦労してかき混ぜても、味わうのはお嬢様方、私に残るのは香りだけ」と嘆く通り、チョコレートはモーツァルトの時代にはかなりの贅沢品だったようです。
モーツァルトが従妹マリア・アンナ・テクラに宛てて書いた手紙「残念ながらヨーゼフ・ハゲナウアーが亡くなりました――彼の家で、あなたと僕の姉と僕とで、チョコレートを飲みましたよね」からは、作曲家自らもチョコレートの味わいを愛で、後々まで快い思い出としていた様子がうかがわれます。
そして今日、「お菓子の都」ウィーンのチョコレートはますます魅惑的。アルトマン&キューネ、ベルガー、ショコ・ラーデン・ヴェルクシュタットといった個性的な専門店がひしめき合い、とりわけショコラーデケーニッヒの店内で飲むことのできるハイセ・ショコラーデ(ホット・チョコレート)は絶品です♪
アイスショコラーデの季節が終わっても、メルクス教授をめぐる室内楽は続き、目下はベートーヴェンの壮大な弦楽四重奏曲《大フーガ》に取り組んでいます。2012年は一体どんな響き・どんな味覚との出会いが待っているのかしら?今から楽しみでなりません。(『百味』2012年1月号に掲載された「ウィーン便り26」)
「バーデンのモーツァルト」のパンフレット |
オープニング・セレモニーで演奏したロレット博物館 |
バルツァバ教授、太田英里さんとのピアノ三重奏 |
夏の思い出、アイスショコラーデ |
ショコ・ラーデン・ヴェルクシュタットのショーケース |
ショコラーデケーニッヒの風情ある店構え |
■新しい道、新しい味
季節はめぐり、だんだんと次回の帰国公演が近づいてきました。Reine pur 第1回「モーツァルトの影法師」にご好評いただけたのを励みに、この秋は「新しい道」と題した第2回のプログラムに取り組んでいます。
「新しい道」は、シューマンが若きブラームスを世に送り出した、熱烈な紹介記事のタイトル。その中に「向上めざましい芸術家たち」として名を連ねるディートリヒとバルギール(クララ・シューマンの異父弟)の知られざる名曲が、両巨匠の対話を美しく彩ります。
生前、シューマンの後継者として非常に高く評価されていたディートリヒは、4歳年下のブラームスの生涯の友でもありました。共通の友人ヨアヒムのために、(誰がどの楽章を書いたか当てさせようと)シューマンが間奏曲とフィナーレを、ブラームスがスケルツォを作曲した《F.A.E.ソナタ》で、ディートリヒは第1楽章を受け持っています。
「僕の音楽をいつも温かく理解してくれて、ありがたいかぎりです。君のような立派な音楽家が満足してくれるのが信じられない」(ブラームスからディートリヒへの手紙)――ディートリヒ唯一の《チェロ・ソナタ》からは、彼の誠実で包容力ある人柄が聞こえてくるようです。
シューマンの《アダージョとアレグロ》は、「新しい道」執筆の4年前にあたる1849年に作曲されました。ちょうどヴァルヴ・ホルンが普及しつつあった頃で、ピアノとホルンを想定して書かれましたが、「チェロまたはヴァイオリンで演奏してもよい」とされ、チェリストの代表的なレパートリーとなっています。
クララへの尊敬の念を絶やすことがなかったというバルギールは、義兄シューマンの援助を受け、ブラームスとも親交を結びました。優しく静謐な美しさが印象的な彼の《アダージョ Op.38》を通して、音楽史から抜け落ちてしまった “ 当時の情景 ” を再現することができれば幸いです。
シューマンがウィーン滞在中に住んだ家(右から2軒目) |
レッセル公園のブラームス像 |
ブラームス来訪から半年も経たないうちに、シューマンの精神の変調は危機的な様相を呈し、ついには投身自殺を図り、保護施設に収容されてしまいます。1856年にシューマンが亡くなった後、ブラームスはデュッセルドルフ、デトモルト、ハンブルクなどを転々としていましたが、やがて新天地を求め、憧れのウィーンに向かいます。
初めてウィーンを訪れた年、1862年に着手された《チェロ・ソナタ第1番》は、ブラームスが見定めつつあった “ 己の道 ” (過去の大作曲家たちを模範に新しい音楽を作り出す)をはっきりと伝えています――バッハやベートーヴェンへのオマージュとも言うべきこの作品を、彼は「シューベルトの貴重な自筆譜を入手できたお礼に」友人のゲンスバッハーに捧げるのです。
「ウィーンでバッチリ身につけた流儀で……奥方の御手にくちづけとさよならを」この頃のディートリヒ宛の手紙を読むと、ブラームスが茶目っ気たっぷりに、ウィーン独特の空気に溶け込んでいったことがわかります。
とりわけ、魅惑的な「カフェ文化」は末長く愛し続けたようで、カフェ・シュペールに足繁く通い、遠く離れた避暑地ですら、ウィーン製のミルで自らコーヒー豆をひいていたのだとか。
ドイツ語ではコーヒーのことも「カフェ」(Kaffee)と言いますが、ブラームスはアクセントを最後のシラブルに置き、ウィーン風に「カフェー」と発音していたそうです。12月16日(金)ソノリウムでのコンサートで、ちょっぴりウィーン風味?の青年ブラームスをご堪能ください。(
「ウィーン便り(25)」 『百味』 2011年11月号掲載)
◆レモーニ山の総合芸術◆
初めての神戸公演から始まった帰国ツアーを無事に終え、先日ウィーンに戻ってきました。たくさんのお客様との素敵な出会いがあり、「ウィーン便り」を読んでコンサートにいらして下さった方もいるとお聞きし、大変嬉しく思っています。
フンメルのチェロ・ソナタのオリジナル版や、ヴァイオリンとチェロが親密に語り合うデュオなど、一般の方には馴染みのない曲も多かったはずですが、温かい反響の数々から「自分が良いと信じた音楽を、心を尽くして演奏すれば、お客様も心で受け止めてくださるものなのだ……」と、今後への勇気を頂きました。
今回ご紹介するウィーンの名所、アム・シュタインホーフ教会(1904-1907年)は、建設当時激しい賛否両論を巻き起こした “ 変り種 ” 。教会らしからぬ奇抜な外観を「インドのマハラジャの墓所」と表現されたり、いわゆる精神病患者施設の中にあったことから「気違いのための気違い教会」と罵られたりしたのだとか!
丘の上にきらめく金色の丸屋根は、半分に切ったレモンを連想させ(ウィーンっ子の頭の中にあるのは食べ物ばかり?)、ついには「レモーニ山」というニックネームが定着してしまいました。
進歩的で寛容な人だったオットー・ワーグナーは、教会の設計にあたり「私の建てる教会は多様な宗教に使えるものであるべきだ」との意見で、(予算削減のために実現しなかったものの)ローマ・カトリック用のメインの礼拝堂の他に、2つの地下礼拝堂がそれぞれプロテスタントとユダヤ教に供される予定だったそうです。
「芸術は私たち生きる者に従うべきであり、芸術の主人は必要性である」というワーグナーの基本構想も、教会内の随所に見て取ることができます。たとえば彼は、全ての訪問者から祭壇と説教壇が見えるように設計し、さらにその効果を強調するため、床には祭壇に向かって30センチの勾配をつけました。
また、ウィーン工房(20世紀初めに建築家ヨーゼフ・ホフマンらが設立した工房)によるオリジナルのベンチは、患者がぶつかって怪我をしないよう角を丸くし、つまずかないようにベンチ間のスペーサーを無くしてあります――バリアフリーの概念が普及するはるか以前に、ウィーンではこんな配慮がなされていたのですね!
コロマン・モーザーのガラス・モザイク窓から、華麗な天蓋を備えた祭壇まで、この教会では何もかもがユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)で装飾されているのですが、なんとバルコニー上のパイプオルガンもそうで、この様式で作られた極めて稀な例とのこと。
「教会は衛生的だろうか、音響的に良いだろうか、明るいだろうか……」アム・シュタインホーフ教会は、まさにユーゲントシュティールの「総合芸術」なのであり、そこに優しい息吹を吹き込んでいるのは、訪れる “ 人 ” を思いやる建築家の真心なのではないでしょうか?
オットー・ワーグナーに興味を持たれたけれど、レモーニ山まで足を運ぶ時間がない……という方は、街中で手軽に、より小規模な作品を味わうことができます。実際、3本の地下鉄が通るカールスプラッツ駅など、彼の優美な建築を出入り口として活用し続けているため、これを見ずに生活するのが難しい(!)くらいです。
私のアパート近くのヒーツィング駅では、地下鉄のプラットホームからかつての皇帝専用駅舎「オットー・ワーグナー・ホーフパビリオン・ヒーツィング」を見上げることができます。美術館に行かなくても、日々自然と価値あるものに囲まれている――この贅沢極まりない環境こそが、音楽の都の隠れた原動力なのかもしれません。
(『百味』2011年9月号掲載)
 アム・シュタインホーフ教会
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工夫を凝らした教会内部 |

角を丸くし、スペーサーを無くしたベンチ
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コロマン・モーザーのガラス・モザイク窓 |

華麗な天蓋を備えた祭壇
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オットー・ワーグナー作のカールスプラッツ駅 |

ヒーツィング駅のプラットホームからの眺め
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◆ヨウ素の錠剤と「春なのに」◆
東北地方太平洋沖地震発生から数十日経ち、ようやく当時を振り返り、文章にする勇気が出てきました。遠く離れたウィーンで、テレビ画面を通して受ける恐怖や苦痛は、被災された方々のご不幸に比べればほんの微々たるものに過ぎません。――それでも、夜も眠れず祖国の無事を祈り続けたあの日々には、国内とはまた違った辛さがありました。
とくに原発事故に関しては、その直後から"Super-GAU"(原発の超特大想定事故)の危機がトップで報じられており、「5、6時間後にチェルノブイリのような惨事が起きる可能性もある」「被害はその時の風向き次第で、大都市東京に向かって吹いたら地獄だ」といった専門家たちの見解に、毎日身も凍る思いでした。
当の日本国内では、なぜか楽観的な情報ばかりが流れているようで、しばしばこちらで先に報道される事実(!)を東京の家族などに伝えるため、片時もテレビを消せなくなりました(3月下旬にアメリカから帰国した知人も、原発報道の“温度差”に驚いていました)。
「ヨウ素の錠剤のことを知らない人すらいるのでは?」と日本国民の安全を懸念するオーストリア人。あの時、決死の作業が成功しなかったらどうなっていたのか、(東京の全住民を避難させるのは不可能とのことでしたが)被害を最小限にとどめる備えはあったのか……私達には、実態を知る権利と義務があるのではないでしょうか?
チェルノブイリの被害が骨身にしみているオーストリアには、(それ以前に建設されたツヴェンテンドルフ原発も国民の反対にあって稼動しなかったため)原発がただの1基もありません。
こちらの専門家によれば、日本が電力の約3分の1を原子力に頼っていることや、台風のために風力が使えないことを考慮に入れても、「新エネルギーへの移行を図れば脱原発は可能」なのだそうです。今回の教訓を正しく受け止めて、我が国がより良い未来を目指せることを願ってやみません。

ヨウ素の錠剤
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太陽光発電所に生まれ変わったツヴェンテンドルフ原発 |
そんな暗澹たる心の奥底に、希望の光を届けてくれたのは、やはり音楽と、それにまつわる人々との交流でした。チェロを弾く以外は何もする気になれませんでしたが、バッハの《無伴奏チェロ組曲》のような人知を超えた名曲が、いつになくまざまざと感じられ、無我夢中で3月18日の舞台に立ちました。
寄付大国オーストリアが示した、日本への思いやりは驚くほど深く、演奏したり他のコンサートを訪れたりと、音楽を通して被災者のお役に立てたのも大きな救いでした。5月5日のウィーン公演も、(こちらから強いることは決してしたくないのですが)ピアニストのスレブラ・ゲレヴァが「日本のために何かしたい」と言ってくれたお陰で、心温まるチャリティーコンサートになりました。
親友の祥ちゃんこと、メゾ・ソプラノ歌手の菅野祥子さん(ウィーン在住で、ウィーン少年合唱団のヴォイス・トレーナーも務めています)との、思いがけないジョイントの機会もありました。津波で壊滅状態に陥った故郷、陸前高田の市民を励ますために、彼女がチェロを交えて作詞・作曲した歌「春なのに」が、エフエム岩手で数回にわたり放送されることになったのです。
台湾出身の作曲家、呉睿然がピアノ・パートを加えてアレンジし、「レイネ デビュー」「赤いはりねずみ」の録音技師アレクサンダー・グリューンも、「日本のためなら」と無償でのスタジオ録音を申し出てくれました。
「桜咲く季節がまた訪れるこの年。僕は一人たたずみ、波の音を聞く。空青く果てしなく、山の青、海の青。一つに交わって、僕は凛とする。……」ウィーンの友情の輪が作り上げたこの美しい音楽が、岩手のみならず、様々な形で震災と向き合われた全国の皆様に届いていきますように。
(『百味』2011年7月号に掲載)

フォルクスオーパーのチャリティーコンサート「希望」
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スレブラ・ゲレヴァとのチャリティーコンサート |
 (左から)祥ちゃん、私、アレクサンダー・グリューン、呉睿然
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「春なのに」をコンサートでも演奏 |
◆絞りたての Reine pur◆
CD「赤いはりねずみ」の発売から1年余。長期的な発展を目指し、"Reine pur"と題したシリーズ公演を始めることになりました。 "pur"はドイツ語で「純粋な、混じり気のない」などの意味で("Reine"にも同じような意味があります)、日常的には"Apfelsaft pur"(炭酸なしのリンゴジュース)のように使います。曲目から共演者まですべて自分で選び、だんだんと形を取り始めてきた「私の音楽」を熟成させていくことができれば……という願いを込めました。
カタカナで「レイネ・プーア」と書くと、英語の poor かと納得されてしまいそう(!)なので、あえてドイツ語表記のままで――。クラシックの自主公演を続けるのは経済的にも難しいことですが、音楽の素晴らしさをご理解くださり、支援してくださる皆様のお力を借りて、ヴァラエティー豊かな作品や編成に取り組んでいきたいと夢見ています。
記念すべき第1回は、「モーツァルトの影法師」という副題をつけたユニークなプログラム。チェロ・リサイタルには珍しい “ モーツァルト ” を陰の主役として、彼と交友を持った作曲家たちの作品を集めてみました。
「誠実な人間として神に誓って申し上げます。貴方のご子息は、私が名前と人物を知る範囲で、最大の作曲家です」モーツァルト宅をしょっちゅう訪れていたハイドンは、ある晩、モーツァルトの父レオポルトにこう告げたと伝えられています。そんなハイドンの《アダージョ》(交響曲第13番より)は、彼独特の温かな慈愛に満ちています。
見事な即興演奏でモーツァルトを唸らせ、「この男から目を離すな。いつか必ず評判になるだろうから」と言わしめたというベートーヴェン。ハイドン、モーツァルトと続くウィーン古典派の伝統を深く学ぶにつれ、《チェロ・ソナタ第3番》も一層輝きを増すように感じます。
ダンツィの《 「ドン・ジョヴァンニ」の主題による変奏曲》は、色男のドン・ジョヴァンニが村娘ツェルリーナを誘惑する「お手をどうぞ」の二重唱を主題としています。花婿のマゼットを思ってためらうツェルリーナは、拒み通すことができるのでしょうか……?
パラディスは、国際的に活躍した盲目の女流ピアニスト・歌手・作曲家で、モーツァルトは彼女のためにピアノ協奏曲を作曲しています。美しい《シシリエンヌ》は、パラディスの代表作として様々な編成で親しまれています。
少年時代、モーツァルトの家に住み込んで(!)レッスンを受けたフンメルは、生涯恩師の音楽に傾倒していたそうです。彼の魅力溢れる《チェロ・ソナタ》は、「愛情深い先生」という、モーツァルトの隠れた素顔をも実感させてくれます。
日本公演に先駆けて、5月5日にはウィーンのブロードマン・ピアノ・サロンにて、同じプログラムを演奏する予定です。ブロードマンは、ベーゼンドルファーの師に当たるピアノ製作者で、ベートーヴェンや、モーツァルトの義理の従弟ウェーバーも彼のピアノを所有していたのだとか――プログラムにぴったりの会場で演奏できるのが楽しみです。
Reine pur 第1回「モーツァルトの影法師」は、6月2日(木)19:15より、三軒茶屋のサロン・テッセラにて開催致します。ウィーンの香り一杯、 ぎゅっと搾りたて(?)の新シリーズを、是非味わいにいらしてください。 (
『百味』2011年5月号に掲載)
◆あかちゃんチェロのオイシイおんかい ◆ 一時帰国中の12月20日、チェリストの両親と定期的に続けてきた「ちいさな音楽会」が35回目を迎えました。3台のチェロという特殊な編成のため、毎回プログラミングに頭を悩ませていますが、今回はアン・ダドリー作曲の《きんいとまきちゃんと3だいのチェロ》という、かけがえのないレパートリーとの出会いがありました。
この曲はイギリスの名チェリスト、スティーヴン・イッサーリスのテキストを交えた“音による童話”で、一昨年の来日時に彼が「まさに君たち一家のための作品だよ」と楽譜をプレゼントしてくれたことから上演が可能になりました。
本邦初演に向けて、私自身がテキストを日本語訳することになり、出版元のUniversal Edition (UE)から翻訳許可を取り付けました。UEは1901年創業の歴史あるウィーンの出版社で、マーラーやシェーンベルクなどの数々の名曲を世に送り出してきた会社と契約を交わすと思うと、何だかドキドキしてしまいました。
タイトルを見て、ぴんと来た方はいらっしゃいますでしょうか?――そう、この作品は、イギリスなどで親しまれている童話『きんいろまきげちゃんと3びきのくま』のパロディなのです!金色の巻き毛(Goldilocks)を金の糸巻き(Goldiepegs)に変え、自己中心的で人騒がせなヴァイオリンが勤勉で仲の良いチェロ親子(!)の家を探検していく「新バージョン」は、イッサーリスらしい音楽的なユーモアに溢れています。
原作では、熊親子の留守宅に忍び込んだ金髪の少女が、彼らのおかゆを食べてしまったり、赤ちゃん熊の小さな椅子に腰かけて壊してしまったりと大騒ぎ。お父さん熊のおかゆを「あつすぎる」、お母さん熊のを「つめたすぎる」と試した挙句、赤ちゃん熊のを「ちょうどいいわ」とすっかり平らげてしまいます。
これに対し、ヴァイオリンのきんいとまきちゃんがチェロたちの台所で見つけるのは、3本の譜面台に載った3つの音階。お父さんチェロのロ長調を「むずかしすぎる」、お母さんチェロのハ長調を「かんたんすぎる」と試した末、赤ちゃんチェロのト長調を「ちょうどいいわ」とちょっぴり自慢げに弾ききります。
その後、帰宅した親子がそれぞれの音階を披露する場面があるのですが、父のロ長調は単なる音階ではない、本当に厄介なパッセージ。母は実力を隠して、夫唱婦随のハ長調(?)に甘んじなければなりません。そんな両親を横目に、赤ちゃんチェロこと私は、簡単かつ可愛らしい、オイシイ役どころを楽しみました。
3台のチェロ、ヴァイオリン、ピアノ、そして語り手という編成のこの曲は、情景や心理を見事に音で表現し、音楽的にも素晴らしいので、お子さんたちだけでなく大人のお客様からも温かい反響が寄せられました。お話の中に出てくる音楽用語を簡単に説明してから演奏すれば、初心者向けの「ミニ音楽教室」にもうってつけ。
音楽の都ウィーンでは、子供の時から 本物の 芸術に触れさせて、豊かな感受性を育てる場に事欠きません。世界一流の国立歌劇場は、屋上に設えられたテントで子供向けのオペラを上演し、さらに14歳未満を対象に、劇場内の全てのカテゴリーを15ユーロ均一で提供しています。
国立歌劇場の上の愛らしいテント |
シェーンブルン宮殿のマリオネット劇場 |
シェーンブルン宮殿にあるマリオネット劇場は、残念ながら生演奏ではないものの、質の高い録音を用いて《魔笛》や《こうもり》といった名作をちびっ子たちに紹介しています。操り人形たちの衣装や舞台装置も非常に手の込んだもので、それらが一体となって作り上げる夢の舞台は、小さな胸に忘れがたい「何か」を刻み付けるのです。
子供だから分からないだろうと思うのは間違いで、無限の可能性を持つ幼少期にこそ(たとえすやすやと寝入ってしまったとしても……)良いものをたくさん見聞きし、“心の器”を広げるべきなのではないでしょうか?――そこのきみ!こんどはぜったい、ぼくたちのえんそうをききにきてね!(少々育ちすぎてしまった赤ちゃんチェロより)
「ウィーン便り(21)」(『百味』2011年3月号に掲載
◆ 金のキャベツに描かれた「第九」 ◆ 年末を始め、日本では頻繁に聴く機会のあるベートーヴェンの「第九」ですが、本場ウィーンにはむしろ「簡単に取り上げる作品ではない」という空気があり、他の交響曲に比べ特に身近な存在ではありません。けれども指揮者ティーレマンによるツィクルスの一環で、2010年4月にようやく、ウィーン・フィルの第九を生で味わうことができました。
楽友協会の大ホールで開かれたこの公演と同様、あるいはそれ以上に印象的だったのは、「初演の場所でのベートーヴェン」と題された、アン・デア・ヴィーン劇場での交響曲第5、6番のコンサートです。
1808年12月22日、これらの名曲がここで初めて鳴り響いた(まだ第5番と第6番が逆に数えられていた、当時の順序に倣って、この日も第6番「田園」が先に演奏されました)……そう考えながら素晴らしい音楽に身を委ねるのは感慨無量で、劇場独特の素朴な音響がかえってウィーン・フィルの緻密さを際立たせ、まるで精霊が宿ったかのような一音一音に圧倒されてしまいました。
数年前、国立音大近くの小さなレストランで食事をした時のこと。外へ出て何気なく建物を見直してみると、「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1823/24年にここで交響曲第9番を完成した」と記されたプレートが……!ウェイターに「何階に住んでいたんですか?」と尋ねても分からない、そんな無頓着さも、ごく自然な形で歴史が生活の中に息づいているウィーンならではかも知れません。

アン・デア・ヴィーン劇場での交響曲第5、6番のコンサート
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ベートーヴェンが第九を完成した家 |

セセッション
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「時代にはその芸術を。芸術にはその自由を」 |
(キャベツに似た金色の球を頭上に頂くユニークな外観から) “ 金のキャベツ ” の愛称を持つセセッションの地下に、その第九をテーマとしたクリムトの壁画「ベートーヴェン・フリーズ」が飾られています。リヒャルト・ワーグナーによる第九の解釈にのっとり、クリムトは “ われわれ人類の幸福への憧れ ” を独自の手法で描き出しています。
左側の壁面から正面、そして右側へ、「完全武装の勇者」、「敵対する力」、「われわれの心をむしばむ悲しみ」、「詩」と物語は進んで行き、最後の場面では「楽園の天使たち」の合唱の前でキスをする一組の男女によって、芸術の神格化が表されます(この表現は、第九の最後の合唱の一節「この接吻を全世界に」に由来するのだそうです)。
1897年、クリムト、ヨーゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、コロ・モーザー、カール・モルを始めとした進歩的なグループが「ウィーン分離派(セセッション)」を結成しました。オルブリッヒの設計によって翌年建てられた “ 金のキャベツ ” は、伝統に対する挑戦の象徴であり、ウィーンのユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)の最も重要な芸術作品の一つでもあります。
セセッションの入り口の上方には、創立メンバーが主張したスローガン「時代にはその芸術を。芸術にはその自由を」が掲げられています。とは言っても、クリムトの壁画を含む14回目の展示会を通して彼らが賞賛したのは、既に世を去って久しかったベートーヴェン――芸術の本質は、時代やジャンルの違いを超えて、脈々と受け継がれてきたわけですね。
ところで、ウィーンのキャベツは日本で食べているものより硬く、葉をはがすと手が痛くなりそうなほど!?(漬物にしたザウアークラウトが好まれるのは、そのためもあるのでしょうか。)
金で仕上げたブロンズ3000枚の月桂樹の葉から成るという、セセッションの透かし模様の球体も、ぎゅっと詰まった質感が、なるほど “ キャベツ ” かも……。伝統を重んじつつ、革新を笑って受け入れてきたウィーンの街は、急ぐことなく着実に、その美しい歩みを進めています。
(
ウィーン便り⑳ [百味 2011.1月号より)

横から見たセセッション
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側面後方の壁にもご注目 |
◆ヴァインベルク城の室内楽フェスティヴァル◆
7月10日から18日までは、ウィーンを離れ、ヴァインベルク城の室内楽フェスティヴァルに参加してきました。リンツにほど近いケーファーマルクトという町にそびえるこの城は、少なくとも1305年まで遡れる古い歴史を持っており、ルネサンス時代やバロック時代の面影を色濃く留めています。
「ヴァインベルク」(葡萄畑)という城の名は、初期の所有者がこの丘の斜面で葡萄を栽培していたことに由来するのだとか――今日では本物の葡萄畑は見当たらないようでしたが、様式化された葡萄の葉が城内のあちらこちらを美しく飾っていました。
オーストリア各地を始め、ハンブルクやセビリアからも駆けつけたメンバーは、オーストリア人、ドイツ人、イギリス人、オーストラリア人、メキシコ人、コロンビア人、日本人と国際色豊か。様々な組み合わせで各人が3~5曲を受け持ち、私は弦楽六重奏や八重奏、チェロ四重奏といった、普段時間を取りにくい編成にじっくり向き合いました。
朝9時15分から夜7時まで(希望者はその後も初見でのアンサンブルが可能!)、“室内楽漬け”の毎日でしたが、合わせの会場となった「騎士の広間」や「祖先の広間」で見事な室内装飾に見惚れたり、空き時間に庭園や周囲の森を散歩するなど、地方ならではの休暇気分も味わうことができました。
とりわけ、満天の星に抱かれる、夜の散策の素晴らしかったこと!様々な星座の間を駆け抜ける流れ星、“地上の星”そのままに、草むらやその上空にきらめく蛍……魔法の森に迷い込んだようなあの情景は、今でも忘れることができません。
丘を少し下ったところにある巡礼教会では、世に名高い木彫りの祭壇を心ゆくまで鑑賞しました。オーストリアの作家シュティフターがこの彫刻の芸術的価値を再発見し、腐朽から救ったのだそうで、彼の長編小説『晩夏』には、ケルベルク(実際にはケーファーマルクト)の教会と高祭壇が登場します。「私たちは長い間教会の中にいた。私はできればいつまでもいたい気持だった。この作品のもつ落着きと厳しさ、気高さと素朴さには、畏敬の念というか殆ど畏怖の念すら覚えた。細部が非常に豊かに仕上げられているのに、全体の構図が簡素であるため、見るものの眼と心に安らぎを与えるのだ。」
ケーファーマルクトのヴァインベルク城
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巡礼教会の木彫りの祭壇 |
中休みと決められた14日の午後には、4人の仲間たちと連れ立って、チェコの古都チェスキー・クルムロフを訪れました。国境でのパスポート・コントロールも無く、プラハから足を延ばすよりはるかに近かったので、便乗できてラッキーでした。
世界遺産に指定されている中世の街並みは、噂にたがわず溜息が出るほどの美しさ。色とりどりの塔が印象的なチェスキー・クルムロフ城に到着すると、エゴン・シーレが好んで描いた、ヴルタヴァ川と家々の絶景が眼下に広がりました。
さあ、身も心もリフレッシュして、再びチェロに向かいます。16日と17日に騎士の広間で開かれたコンサートでは、月夜の森を舞台としたシェーンベルクの《浄められた夜》や、慈愛の光に照り映えるフィッツェンハーゲンの《アヴェ・マリア》など、滞在中の様々な体験から膨らませたファンタジーを一音一音に込めました。
翌日ウィーンに戻り、暇を見つけてこのエッセイを書き進めているうちに、早いものでもう9月――葡萄の季節になりました。秋の風物詩、ワインになる前の「モスト」(葡萄ジュース)や「シュトゥルム」(半発酵状態)も街を賑わし始めています。音楽シーズンの再開を喜びつつも、“葡萄畑の城”でののどかな日々をふと思い出す今日この頃です。(「ウィーン便り⑲」
『百味』11月号掲載)
◆チャリティーコンサート「エミス村に水を」 ◆
蛇口をひねって流れ出す、水の冷たさが肌に心地良い季節になりました。毎日何気なく触れているこの清らかな水は、はるばるアルプスから運ばれて来ているのだとか。海外を回っていると、飲み水の確保に苦労することがありますが、ウィーンの水道水はそのままコップに入れて飲んでも安心です。
ウィーンっ子曰く、「ペットボトル入りのミネラルウォーターより美味しいよ!」カフェでコーヒーを注文すると、水の入ったグラスにスプーンが乗って出てくる粋な “ 伝統 ” が今日まで続いているのも、こんな恵まれた背景があってこそ、という気がします。
水道料金も割安で、留学当初は家賃に含まれていると知らず「どうして請求が来ないんだろう?」と驚いてしまいました。ただ、今住んでいるアパートでは、キッチンとお風呂の給湯がタンク式(適温で15分シャワーを使うと、再びお湯が沸くまで何時間か待たなくてはなりません)になっているため、冬場は特に、配分に工夫が必要なのですが……。
けれども最近、そんな生活が不便であるどころか、実際には途方も無い贅沢なのだ、と考えさせられる機会がありました。6月11日にウィーン20区の聖ブリギッタ教区教会で開かれた、チャリティーコンサート「エミス村に水を」に出演したのです。

ウィーン20区の聖ブリギッタ教区教会
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荘厳な雰囲気に包まれたチャリティーコンサート |
ケニアのエルドレット近郊に位置するエミス村では、およそ7000人の人々が給水無しで暮らしています。女性たちや少女たちは家族のために、毎日4時間もかけて水を汲みに行き、何キロも歩いて料理に使う薪を集め、その傍ら子供たちの世話に追われています。
住民の約3分の1はきれいな飲み水を手に入れられず、川(干上がっていなければ……)から運んできた水を煮沸消毒しているにもかかわらず、しばしば大勢の人々がチフスにかかってしまいます。ケニアの多くの地域では、飢えや感染のせいで、6人に1人の子供が5歳の誕生日を待たずに亡くなっているのだそうです。
救援活動の一つの可能性として企画されたチャリティーコンサートには、私自身も含め、総勢11人の歌手・器楽奏者(ソプラノ3人、メゾソプラノ、カウンターテナー、バリトン、ヴァイオリン2人、チェロ、オルガン、ピアノ)が集いました。
私はバッハの《無伴奏チェロ組曲第3番》からの抜粋の他、ヘンデル、モーツァルト、ヴィヴァルディなどの作品を演奏しました。バッハは教会の荘厳な雰囲気に良く合い、空間の隅々まで伝わっていく響きを聴き取りながら、今の自分にできる限りの善意と祈りを音に込められたように思います。
ケニア大使を始めとする賓客の挨拶を挟んで、プログラムの終わりには、ケニアの女声合唱によるケニア民謡が披露されました。終演後のレセプションではケニア料理を含むビュッフェも振舞われ、日本に生まれ育った私にとっては得難い国際交流の場となりました。
入場料を決めず自発的な寄付を募った、コンサートの収益によって、エミス村に良質の飲み水を供給するための作業が進められ、9月には村民たちに水道施設を受け渡しできるとのこと――素晴らしい音楽が人々の心を動かし、尊い命を救う、その一助となれたことは、チェリストとしての私の人生にも大きな実りをもたらしてくれました。
微々たる歩みではありますが、今後も人としての視野を広げ、チェロと共に信じる道を進んで行きたいと願っています。
たくさんの小さな場所で
たくさんの小さな歩みを進める
たくさんの小さな人々は
世界の顔を変えることができる
(組織委員会「エミス村に水を」のホームページ http://www.wasserhilfe-kenya.at/ に掲載されたアフリカの諺)
「ウィーン便り⑱」 『百味』9月号より

ケニアの女声合唱
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レセプションで振舞われたケニア料理
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お土産にもらったケニアのお菓子 |
◆アルペッジョーネと帝国のリンゴ◆
前回の「ウィーン便り」でご紹介した美術史美術館には、いくつかの興味深い別館があります。とりわけ、本館からリンクを渡ったところにある王宮では、宝物館、エフェソス博物館、狩猟・武具コレクション、古楽器コレクション……といった多種多様な展示を楽しむことができます。
私自身の一番のお気に入りは、やはり新王宮に収められた古楽器コレクションで、展示品を眺めるだけでなく、オーディオガイドで音色を聴くこともできるため、チェロを演奏することへの貴重なインスピレーションを得ています。
オーストリアの楽器製作の発展を辿りつつ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどの大作曲家にまつわる蒐集品と向かい合うのは、音楽を愛する者にとって非常に魅力的なひとときです。
モーツァルトと同時代に活躍した盲目の作曲家、マリア・テレジア・フォン・パラディスがどのように音楽作品を習い覚えたかを伝える点字の楽譜も、彼女の作とされる美しい《シシリエンヌ》を弾いた後に見ると感慨深いものがあります。板状の五線譜に差し込まれた木片の形と位置から音符を読み取る仕組みで、ガラスケースの下の棚に手を入れると、見学者も同形の楽譜を触れるようになっています。
シューベルトをテーマとした「ホール XV」には、当時のユニーク極まりない楽器が並んでいます。戸外で過ごすために作られた、散歩用ステッキの形をしたリコーダーやヴァイオリン、はたまた設置場所の都合で竪型にされた、ピラミッドピアノやキリンピアノ!

古楽器コレクションが収められた新王宮 |

キリンピアノ(左)とピラミッドピアノ(右) |

散歩用ステッキの形をしたリコーダーやヴァイオリン
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シューベルトゆかりの楽器、アルペッジョーネ(左) |
そして、1823年にヨハン・ゲオルク・シュタウファーが考案した「アルペッジョーネ」(ギターの調弦で6弦が張られ、弓を使い、チェロのように膝で支えて演奏されます)。シューベルトがアルペッジョーネのために書いたソナタはチェリストの大切なレパートリーとなっていますが、楽器自体はすぐに忘れ去られてしまい、滅多に目にする機会がありません。
4月13日、楽友協会ガラスのホールで、この “ 幻の楽器 ” による《アルペッジョーネ・ソナタ》の生演奏を聴くことができました。チェロやヴィオラのようなまろやかさは無いけれども、聴いているうちに癖になりそうな(?)独特の味わいがあり、長年取り組んできた名曲のイメージがますます大きく膨らみました。
5月6日には、「モーツァルトハウス ウィーン」のイベント会場で、エステルハージ・アンサンブルのコンサートを聴きました。ハイドンが多くの作品を遺した楽器「バリトン」(6または7弦が張られ、指板の下にも共鳴弦を持つバス・ガンバの変種)を間近に見るのは、これまた珍しい体験ですが、この日は珍しさがさらに倍増!?2台のバリトンによるデュエットまでもが披露されました。
アンサンブルのメンバーと面識があったこともあって、「弾いてみるかい?」と言って頂くことができ……終演後に、恐る恐るフシギな楽器を手に取ってみました。ギターのようなフレットを押さえて7本の弦を鳴らしつつ、左手の親指で共鳴弦をはじくのは、大変ながら面白く、エステルハージ候がバリトンを愛した理由の一つにはこんな遊び心もあったのかも知れないな、と感じました。
さて、最後に再び王宮へ戻り、ハプスブルク家の目も眩むような財宝が陳列された、スイス宮の宝物館を訪ねてみましょう。初めてドイツ語のパンフレットを読んだ時、私は度々出てくる "Reichsapfel"(直訳すると「帝国のリンゴ」)という美味しそうな単語が気にかかり、どこにリンゴが……?と密かに探してしまったのですが、これは(王権・帝権の象徴である)十字架付き宝珠のことなのでした。
中でも、黄金にダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、真珠をちりばめた第2室の帝国宝珠は、同じ様式で作られた笏と共に、輝かしい皇帝ルドルフ2世の王冠を一層引き立たせています。ウィーンにいらっしゃる際には――名物のアプフェルシュトゥルーデル(渦巻き形をしたアップル・パイ)だけでなく――是非この意義深いリンゴをじっくりと堪能なさってくださいね! (「ウィーン便り⑰」 『百味』6月号から)
 モーツァルトハウスで奏でられた2台のバリトン
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宝物館第2室にある帝国宝珠 |
◆美術史美術館のペルシャの宴 ◆
ウィーンに着いた翌々日の明け方、時差ぼけついでに早起きして、バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート(女子フリー)をテレビで見ました。最初に画面に映し出されたのは日本の鈴木明子選手、素晴らしい演技で、オーストリアの解説者も「音楽的で、一歩一歩が拍子にぴったり合っていた」と賛辞を贈っていました。
点数や順位が重視される日本に比べ、音楽がその選手の個性に合っているか、演技全体が心を打つものだったかどうか……をより大切にしたオーストリアの中継は、競技を一層気高いものに見せ、「音楽の都」に戻ってきたことを実感させてくれました。
フィギュアスケートはドイツ語で Eiskunstlauf と言いますが、そこではまさに、この美しいスポーツが "Kunst"(芸術)と捉えられているかのようでした。(歴史をひもといてみると、バレエ教師でもあったジャクソン・ヘインズがウィンナ・ワルツと出会い、シュトラウスを始めベートーヴェンやシューベルトの作品までスケーティングに取り入れて好評を博したのが、今日のフリースケーティングの原型なのだとか。)
ウィーンの音楽に乗せた踊りは魅惑的で、私はウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでも、毎年バレエのシーンを楽しみにしています。今年は何とも豪華なことに、Kunsthistorisches Museum(美術史美術館)がその舞台となっていましたね!
ハプスブルク家の多彩なコレクションを体系的に展示した、ウィーンの美術史美術館は、世界で最も重要な美術館の一つです。ブリューゲルやルーベンスを始めとする名画の数々を鑑賞するだけで、かなり時間がかかってしまいますが、エジプト‐オリエントや古典・古代などの他の部門も見応えがあります。今年は(購入日から12ヶ月有効の)年間入場券が29ユーロで売られていますので、ウィーンに長めに滞在なさる場合は、数日に分けてご覧になるのも良いかもしれません。

マリア・テレジア広場に建つ美術史美術館
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展示品に劣らず意匠を凝らした内装 |
昨年の9月には、この美術史美術館の一室で、チェロを演奏する機会がありました。イランの哲学者、裁判官、そして音楽家でもあったオスタド・エラヒ(1895-1974)の114回目の誕生日を祝う催しを、エラヒにゆかりの深い作品で締め括ることになったのです。
それまで足を踏み入れたことの無かった「バッサーノ・ザール」で、高名な音楽学者や音楽療法士によるパネルディスカッションが行われ、休憩時間は瀟洒な回廊へ出てビュッフェを味わいました。
新しい音の世界を模索した、リュートの一種タンブールとヴァイオリンとのトリオを実現できなかったのは残念でしたが、タンブールの生演奏を目の当たりにしたり、サントゥールという打弦楽器の前奏に続いて演奏したりと、得難い体験をすることができました。
エラヒの思想に触れてみて、最も興味深かったのは、彼が宗教を「学問」と言い換えられるような知識の集積と考え、全ての宗教は(外形を異にするだけで)同一であると述べた点です。このような普遍性をもって、「音楽は私達の魂を神に結びつける」と語った彼のタンブール演奏は、ヴァイオリニストのメニューインやバレエの振付師ベジャールにも大きな感銘を与えたのだそうです。
先日(3月18日)は同じバッサーノ・ザールで、パウル・バドゥラ=スコダのピアノ・リサイタルを聴きました。休憩時間には、レンブラントの『使徒パウロ』を鑑賞する、美術館ならではの小さなガイドツアーもありました。
建物自体が見事な芸術作品である美術史美術館で、美しい音色に耳を傾け、ふと見上げればバッサーノの絵画がすぐそこにある――。心が幾重にも満たされ、優しく高みへといざなわれるのを感じました。 (「ウィーン便り⑯」 『百味』5月号から)

鑑賞に疲れたら、2階のカフェ・レストランで一休み
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バッサーノ・ザールでのピアノ・リサイタル |
◆ Neues Elysiumと『おくりびと』 ◆
主人公が元チェリストという設定上、映画『おくりびと』の噂は日本の方々から頻繁に聞かされていましたが、なかなか自分で見る機会を持てずにいました。……「今頃見たの?」と読者の皆様には呆れられてしまうかも知れませんが、今回は昨年秋の、「ドイツ語字幕付き(!)おくりびと」の体験談をお話ししたいと思います。
10月下旬から11月初めにかけて、ウィーンの中心部で、1960年から続いているオーストリア最大の国際映画祭 “ VIENNALE ” が開催されました。10月30日の21時から、1区の映画館 “ Metro ” で『おくりびと』が上映されるというので、日本人の友人と連れ立って出かけました。
30分程前にロビーをのぞいてみると、既に当日券目当ての行列ができており、私達が受け取った整理券は最後の方の33番と34番。番号を呼ばれる前に売り切れてしまうのでは?と少しやきもきしましたが、幸い二人揃ってチケットを買うことができました。
ケルントナー通りからヨハネスガッセに折れてすぐのこの Metro は、単なる映画館とは思えないような、美しく風情溢れるたたずまい――それもそのはず、この建物は1924年から、1951年に映画館に取って代わられるまで、劇場として使われていたのだそうです。

統あるウィーンの映画館 Metro
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ロビーで開場を待つ人々 |
白亜の天井にきらめくシャンデリア、壁面に設えられた木造りの「ロージェ」(ボックス席)。ロージェで優雅に映画を見るというのも面白い体験ではありますが、残念ながら視界が一部遮られてしまうそうなので、私達は2階席の後方に腰を落ち着けました。
さらに歴史を遡って、19世紀の中頃には、この場所に “ Neues Elysium ” と呼ばれる有名な遊興飲食店がありました。菓子職人ヨーゼフ・ゲオルク・ダウムが聖アンナ修道院の地下空間に作り出したのは、いわばビーダーマイヤー時代のディズニーランド!?音楽、ダンス、曲芸、そして食の楽しみに彩られた「地下の世界旅行」に、市民たちは胸を躍らせました。
贅沢に飾り付けられた店内で、ヴァラエティーに富んだ見世物、演劇、舞踏会やコンサートが催され、観客たちは専用の馬車鉄道に乗って、こちらのアトラクションからあちらのアトラクションへと進んで――こちらの大陸からあちらの大陸へと旅して――行きます。
「アジア」には東洋風の天幕やトルコの楽団が、「ヨーロッパ」には舞踏会の広間とアルプスの酪農小屋が、「アフリカ」にはピラミッドが、「アメリカ」には本物の猿やオウムのいるジャングルが。1840年の12月には、当時ほとんど知られていなかった「オーストラリア」の風景さえもが加わって、人々のファンタジーを掻き立てたのでした。
さて、ぼんやりと過去に思いを巡らせているうちに、肝心の映画が始まってしまいましたね!死にまつわる重いテーマながら、コミカルな場面や台詞の妙(うまくドイツ語に訳され、笑いを誘っていました)もあり、陽気なウィーンの観客席は、まるでシュトラウスのオペレッタでも観ているかのように盛り上がっていました。
日本人の私ですら見たことが無かった納棺の儀はもちろんのこと、昔ながらの銭湯や四季折々の景色なども、外国人の目には新鮮に映ったのではないでしょうか?物語が感動的に締め括られると、場内のどこからともなく、温かな拍手が巻き起こりました。
そう言えば、先程お話しした “ Neues Elysium ” の Elysium とは、ギリシャ神話の(死後人々が幸福な生活を送るという)楽園を意味する単語です。映画の中では死が「門」に譬えられていましたが、当時のウィーンの人々は、その門をくぐり抜けた先にも、楽しい音楽の夢を描いていたわけですね。
帰り道に立ち寄ったアメリカ風のレストランでは、不気味な幽霊やジャック・オ・ランタンが天井を覆い尽くす、ハロウィーンの飾り付けに驚かされました。世界の多様な死生観が交錯した、不思議な一夜でした。 ( 「百味」3月号)

ポップコーンやチップスの並ぶ売店 |

館内に貼られた『おくりびと』のポスター |
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優雅な劇場の雰囲気そのままの場内 |
◆「赤いはりねずみ」制作秘話 ◆
この文章をお読み頂いている頃には、もしかすると、既に私の 2 枚目の CD 「赤いはりねずみ――ウィーンのブラームスと仲間たち」( 2010 年 1 月 20 日発売)が HMV やタワーレコードなどの店頭に並んでいるかも知れません。
「赤いはりねずみ」とは、ブラームスがヨハン・シュトラウスやドヴォルジャークといった多くの友人たちと時を過ごした、お気に入りのレストランの名前です。ブラームスの《チェロ・ソナタ第 2 番》をメインに、ウィーンにゆかりの深い小品や、そうした友人たちの珠玉の作品を集めることで、私がこの街で感じた温かみのあるブラームス像を形にしたいと願っています。
収録曲についての詳細は、お聴き下さってのお楽しみ……。ここでは、ちょっとまぬけな(?) CD 制作の裏話をご紹介しましょう。準備に本腰を入れ始めた夏のある日、アパートの隣人でもあるピアニストの友人と一緒に、ウィーンから 120km ほど離れたミュルツツーシュラークの「ブラームス博物館」に出かけました。
1884 、 1885 年の夏にブラームスが滞在したこの建物は、数年前にも訪れたことがありましたが、その折は館内でのコンサートが目的だったので、展示品をゆっくりと見学することができませんでした。実は今回も、一番のお目当ては博物館の “ 外 ” にありまして――
ブラームスが楽想を練りながら歩いた周辺の散歩道は、「ブラームスの道」と名付けられて今でも辿ることができるようになっています。そして、その要所要所に現れて行く手を示してくれるのが、可愛らしい赤いはりねずみの道しるべなのです。
小さなデジカメ、素人の腕ではありますが、もしうまく写真に撮れれば、是非このはりねずみちゃんを CD のデザインに使いたい……!駅に降り立つなり、真っ先に「ブラームスの道」へと向かいました。
ところが、無謀にも地図を持たずに歩き始めてしまったため、最初はどこにくだんの道があるのかすら分からず右往左往。苦労してはりねずみを 4 匹ほどは見つけたのですが、まずは博物館を見学して、ハイキングコースの地図をもらおうということになりました。
ブラームスが座った木のベンチ(見学者も座らせてもらえます)や、滞在時にしばしば弾いたグランドピアノなどが展示され、最後のコンサートホールでは、発明されたばかりの蝋管蓄音機に彼が吹き込んだ声と演奏(残念ながらかなり雑音が多いのですが)を聴くことができます。
また、いたずら好きのブラームスが子供たちの口に押し込んだ、石の形をした砂糖菓子を試食してみると――見た目だけでなく歯ごたえも石を思わせるので、お菓子と知っている私ですら結構ツライ。五感を通して、大好きなブラームスをますます身近に感じることができました。

ミュルツツーシュラークのブラームス博物館 |
博物館入り口にあるブラームスの胸像 |
さあ、気を取り直して、再び「ブラームスの道」へ!今度は博物館で説明を聞いてきたこともあって、順調に歩みを進めることができました。ただし、後ろ手を組んで思索にふけるベートーヴェンのイメージとは異なり、ブラームスの散歩は本格的な「山登り」。ぜいぜい言いながら必死に赤いはりねずみを追いました(友人は息が切れたためか、途中から「あ、赤ねずみがいた」と絶妙の短縮形を使っていました)。
けれども、次第に現れる森、川、草原や山々の景色はどれも素晴らしく、新鮮な空気を胸一杯に吸い込むと、ブラームスの音楽の壮大さが自然と心に浮かびました。完成した CD のどこかにはりねずみの道しるべが写っていたら、この日の冒険に思いを馳せ、チェロの調べから、作曲者の清々しい精神を一端なりとも聴き取っていただくことができましたら幸いです。
赤いはりねずみの道しるべ |
橋の向こうにも赤い「点」が…… |
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爽快だった下り坂の帰り道 |
◆フィルム・フェスティヴァルを彩る「料理の花束」 ◆
7、8月は「音楽の都」の夏休み。国立歌劇場もフォルクスオーパーも上演せず、その代わりに観光客を対象にした、モーツァルト時代のコスチュームによるコンサートなどが多く開かれています。地元の人たちは大抵旅行に出かけてしまうため、街中でも種々様々な言語が聞こえ、いつもと少し違った雰囲気になります。
「本当にどこにも行かないの?」とウィーンの友人には驚かれてしまいましたが、帰国公演を終えて戻ったばかりの私にとってはここが旅行先のようなもの(?)。コンサートに追われずに自分を見つめ直す貴重な時間でもあるので、CD制作の準備をしたり、本を読んだり、そう、「ウィーン便り」の原稿を書いたり……来シーズンに向けてゆっくりと英気を養っています。
けれども、わずか2ヶ月間とは言え、ウィーンから音楽の楽しみが失われることはあり得ません!ちょうど空白を補う形で開催されているのが、市庁舎広場の「フィルム・フェスティヴァル」(今年は6月27日から8月30日まで)です。
市庁舎の前面に設置された巨大なスクリーン上に、毎晩オペラ、バレエ、クラシックあるいはジャズのコンサートといった魅力的な催しが映し出されます。7月9日、語学学校時代からの韓国人の友人と久しぶりに会うことになり、20時半に市庁舎広場で待ち合わせました(日が暮れないとスクリーンがよく見えないため、この日の上映開始は21時半に予定されています)。
まずは腹ごしらえをと、広場を賑わす屋台を見て回ります。「料理の花束」に譬える優雅な謳い文句そのままに、中国、トルコ、フランス、ギリシャ、メキシコ、インドネシア、オーストラリア、クロアチア……そして地元ウィーンと、彩り鮮やかな各国の料理店が一堂に会する様は壮観です。
私達は、あまり食べる機会のないトルコ料理に挑戦してみることにし、それぞれ"Lahmacun"(トルコのピザ)と"Falafel"(ベジタリアン)を注文しました。人、人、人で座れる席が無く、高い丸テーブルでの立ち食いになってしまいましたが、どちらも美味しくて二人とも満腹・満足♪

フィルム・フェスティヴァルに沸き返る市庁舎広場 |

ギリシャの屋台 |

日本の屋台テッパンヤキ! |

トルコの屋台 |
飲みかけの「ざくろとメロンのボーレ(果物入りのお酒)、ウォッカ入り」のグラスを持ったまま、スクリーン前の観客席に移動します。幸いこちらには十分な数の椅子が用意されていて、見易い席に並んで座ることができました。
プログラムはリヒャルト・シュトラウスによる《英雄の生涯》と《ドン・キホーテ》。実際のコンサートとは違って、途中で出入りしたり、多少おしゃべりをしても大丈夫。リラックス・ムードの中、音で紡がれる壮大な物語を堪能しました。心地の良い風に吹かれ、ふと見上げると空には美しい星が瞬き――。予定表をチェックして、良さそうなものがあれば是非また来ようねと約束して、家路につきました。
そうそうスクリーンと言えば、今年の5月から、国立歌劇場脇のヘルベルト・フォン・カラヤン広場でもオペラが上映されるようになりました。5、6、9、10月の4ヶ月間、歌劇場内の公演を選りすぐって屋外に生中継することで、オペラをさらに開かれたものにし、未来の聴衆を育てようという画期的な試みです。
このプロジェクトが実現に至る直前には、同じ広場へのソーセージスタンドの設置計画に阻まれる(!)危機もありました。市民たちからは投書が殺到。「ソーセージスタンドなら近辺にごまんと立っている」「(オペラを中継してこそ)“音楽の都”が単なる絵空事でなく、実際に存在するのだと世に示すことができるだろう」……
もちろん、チケットが取れれば中で観るに越したことは無いでしょうが、作品や配役についての説明、多様な角度からのカメラワークといった、映像ならではの特典も着々と調えられています。ウィーンにいらしたけれどもお時間の関係などでオペラをご覧になれない、そんな場合には、是非この"Oper live am Platz"(広場でのオペラ生中継)を体験なさってみてくださいね。

Falafel(左)とLahmacun(右)、そしてざくろとメロンのボーレ |

終映後にライトアップされた市庁舎
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ヘルベルト・フォン・カラヤン広場でのオペラ生中継 |
◆「日本のワルツ」とシノデ◆
再びウィーンへ発つ直前の6月8日、日墺協会の例会に出席し演奏する機会がありました。オーストリア大使を始めとする錚々たるお客様が温かいお言葉をかけて下さり、赤白のワインと共に、なまずの燻製のフライ(!)やボイルビーフなどのオーストリア料理を味わいました。
今年は日墺修交140周年にあたるのだそうで、ウィーンでも昨年、それに先立って「450年にわたるヨーロッパと日本の音楽上の関係」という展示会(楽友協会の展示ホールにて)が開かれました。
キリスト教の宣教師たちを通して西洋音楽が日本に伝わり、日本古来の音楽が――彼らの耳には不可解で、ほとんど「耐え難い」響きだったとしても――好奇心をもってヨーロッパ人に受け入れられていく様子は、日本に生まれチェロを志す私にとって大変興味深いものでした。
展示品の中でまず目を引いたのは、「日本のワルツ」と題されたモーツァルトの楽譜……彼の《ドイツ舞曲》KV 600/4は、(そうなった経緯はわかりませんが)同時代人たちにこのフシギな異名で親しまれていたとのこと!
また、ハインリヒ・フォン・ボックレットによるピアノのための《日本の民俗音楽》に書き込まれた、ブラームスの詳細な注釈と訂正にも感銘を受けました。日本公使の邸宅で琴の演奏を聴いた大作曲家が、ボックレットの平易な編曲に満足せず、あくまでも原曲を尊重しようとしていたことが窺えるからです。
プッチーニがオペラ《蝶々夫人》を作曲した際、彼に日本の伝統音楽に関する情報を提供したのは、ウィーン楽友協会音楽院における初めての日本人留学生、幸田延でした。
私はこの秋、ブラームスと、彼の友人だったロベルト・フックスのチェロ・ソナタを中心にCDを制作する予定なのですが、幸田延はこのフックスに作曲を師事したのだそうです――歴史を知ることで、作曲家たちが今まで以上に身近に感じられ、国境を超えた演奏活動を励まされるような思いがしています。
さて今度は、ウィーンの街中で実際に出会うことのできる「日本」をご紹介しましょう。シェーンブルン宮殿の敷地内に、1996年に再発見され修復された日本庭園があるのをご存知ですか?傍らの枯山水は新たに作庭されたものですが、音楽の都ウィーンに因んだという五線譜の敷砂がかわいらしいですね。
そして知る人ぞ知る(?)ウィーン19区の「世田谷公園」は、19区と世田谷区の姉妹友好提携により1992年に開園されました。木の橋からの滝の眺め、睡蓮が浮かび鯉や亀がゆったりと泳ぐ池の静けさなどは、異国にいながら日本を強く思い起こさせ、心を落ち着かせてくれます。
有名な「天満屋」や「優月」を始め、現在のウィーンには数多くの日本食レストランがあり、普通のスーパーでも日本米に近いお米やお醤油などの食料品が売られているので便利です。(お米の名前は日の出ならぬ「シノデ」と、多少違っているような気もしますが、味に支障はありません!)
墺日協会「ニッポン」の主催による、2005年の親善コンサートでは、幸松肇がピアノ三重奏用に編曲した《八木節》を演奏しました。3人の東洋人がねじり鉢巻を締めてコンツェルトハウスのシューベルト・ザールに登場すると、客席からどよめきが起き、フラッシュの雨が降り注ぎました!
けれども、それにも増して嬉しかったのは、長い時間をかけて取り組んできたモーツァルトにご好評を頂けたことでした。地に根ざしたウィーンの音楽を表現するのは容易なことではありませんが、日本人ならではの感性を大切にしつつ、今後も本質に近づくための努力を重ねてまいります。
シェーンブルンの日本庭園を眺めていると、目の前にリスが!
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シェーンブルンの枯山水 |
世田谷公園の滝
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睡蓮が浮かぶ世田谷公園の池
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世田谷公園の茶室 |
日本食レストラン「天満屋」
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スーパーで買えるお米「シノデ」 |
◆楽友協会の黄金の空気 ◆
「シャネル・ピグマリオン・デイズ」などのコンサートに出演するため、3月下旬より一時帰国しています。6月上旬まで、2か月以上にわたる長い帰国はウィーンに留学して以来初めてなので、ハード・スケジュールに追われながらもほっとした気分に浸っています。
地球の裏側から遥か彼方の「第2の故郷」に思いを馳せた時、最も懐かしいものは――馬車が行き交う優美な街並みよりも、趣あるカフェでの一服よりも――やはり「黄金の」と称えられる、楽友協会の壮麗な響きかも知れません。
このホールの特質を最大限に活かすことのできるウィーン・フィルのコンサートに出かけると、単に音が鳴り響いているのではなく、体全体が神々しい空気に包み込まれているように感じます。その会場の空気を吸っている、ただそれだけで、身も心も一杯に満たされ、新たなエネルギーが湧いてくるのです。
ウィーンの批評家テオドール・ヘルムは、1870年のこけら落としの後で、グローサー・ザール(大ホール)の素晴らしい音響は①幸運の賜物である一方で(当時はまだ、音響効果を正確に予測することができませんでした)、②卓越した建築家ハンセンの功績も否めないと述べています。
②については、今日に至ってもなお専門的な研究が続けられていますが、木の床の下に横たわる空洞が――ヴァイオリンにおけるのと同じように――共鳴の役割を果たしているという指摘には特に興味を引かれます。
やはり木でできた天井も、建物に乗っかるのではなく、屋根組みに吊られることで音の振動を助けているのだとか。楽友協会ではしばしば、ホールまでもが呼吸しているかのような感覚に囚われますが、それは言わば、演奏家たちが黄金のホールという巨大な名器を奏でているためだったのですね。
文字通り「黄金色」に輝く、楽友協会の豪華な内装に対し、ウィーンの評論家たちの見解は真っ二つに分かれました。「コンサートホールにはきらびやか過ぎて、音楽に集中できないのではないか」という懸念をよそに、カール・エドゥアルト・シェレは「このホールの荘重な雰囲気は、日常生活を思い出させる全てのものを振り落としてくれる」と記しています。
私自身はどちらかと言うとシェレの意見に同感で、気の向くままに美しい天井画を見上げたりしながらコンサートを楽しんでいます。とりわけモーツァルトなどの雅やかな作品を聴く時に、当時の宮廷の情景が自然と目に浮かぶのは、贅を尽くしたグローサー・ザールならではの体験ではないでしょうか?
ウィーン・フィル、そしてムジークフェライン弦楽四重奏団の団員であるイーベラー先生から受け継いだ演奏法は、楽友協会の豊かな音響と密接な関わりを持っているように思います。
たとえば、指で指板を叩くなどの雑音は極力減らし、左手で押さえない「開放弦」が和声を濁らせることの無いよう、空いている指で絶えず響きを止めなくてはなりません。日本にいた頃に比べ、音の質や色合いをより細やかに探究するようになりました。
ゴールデンウィーク中の「ラ・フォル・ジュルネ」音楽祭では、丸の内オアゾの○○広場で、PAを用いてバッハの《無伴奏チェロ組曲第6番》を演奏しました。不慣れな環境に戸惑いもありましたが、クラシック・ファンに限らず大勢のお客様が熱心に耳を傾けて下さり、嬉しかったです。残りの帰国公演でも、ウィーンの響きを、そして音楽の奥深い味わいを、チェロに託してお伝えしたいと願っています。 (『百味』 「ウィーン便り⑪」)
◇ベートーヴェンのコーヒー・ブレイク
帰国公演を無事に終えてウィーンへ戻り、ほっと一息。音楽の都としてだけでなく、「カフェの都」としても知られているほど、ウィーンには数多くの魅力的なカフェがあります。
ザッハートルテの生みの親「ザッハー」、ハプスブルク家御用達の「デーメル」、モーツァルトトルテが名物の「モーツァルト」、それに、「ツェントラル」、「ゲルストナー」、「ラントマン」、「シルク」……主だったものを挙げても切りがなく、小さな町の中心部で友人と会うにも「今日はどこにしようか?」と迷ってしまいます。
その次に悩むのは、ケーキ選び。世界一有名なチョコレート・ケーキと言われる「ザッハートルテ」、薄いパイ皮にリンゴを包んで焼いた「アプフェルシュトゥルーデル」を始め、それぞれの店に伝統の味が受け継がれています。
コーヒーにも様々な種類がありますが、ウィーンで一番人気があるのは「メランジェ」(泡立てたミルク入り)、日本で言う「ウィンナー・コーヒー」に当たるのは「アインシュペンナー」(生クリーム入りで、グラスに入って出てくる)のようです。
ウィーン人は大変コーヒー好きで、平均して一日に3杯くらい飲んでいると聞いたことがあります。音楽史上の偉大なウィーンっ子、ベートーヴェンもコーヒーに独自のこだわりを持ち、カップ一杯につき60粒きっかりのコーヒー豆を、いちいち数えて挽いていたのだとか……!
「 “ 真のウィーンっ子 ” には、カフェに行く種々雑多な理由がある。コーヒーを飲むため、新聞を読むため、仕事で、または個人的に人と会うため、思索にふける、または単に瞑想するため、チェス・ビリヤード・(トランプの)ブリッジといったゲームをするため、本を書くため――」あるオーストリーの新聞記事にはこう書かれていました。ウィーンのカフェは飲食店であるにとどまらず、「ウィーン独特のライフスタイル」を象徴する場所なのです。
興味深いことに、上記の引用文は次のように締めくくられています。「――手短に言えば、普段よりも自覚を持って生きるために。」
私達日本人の感覚としては、コーヒーを手にするのはどちらかと言うと、「仕事の合間の休憩時間」というイメージがありませんか?
カフェでの何気ないひととき、そしてそこから生まれる「ゲミュートリッヒカイト」(居心地のよさ)、そうしたものに人生の意義を見出すことのできる大らかな土壌が、この町に彩り豊かな音楽文化を花開かせたのかもしれません。(実際ベートーヴェンの時代には、まだホールが不足していたためにカフェでコンサートが開かれることも多く、カフェと音楽とは直接結びついていました。)
ベートーヴェンの伝記作家シンドラーは、「コーヒーは……彼にとって無くてはならない食料品のようだった」と述べています。「ツム・タローニ」や「ミラーニ」といった当時のカフェに、足繁く通っていたベートーヴェン。
耳の病気が悪化していく不幸に苦しめられながらも、彼は日々をいとおしむウィーンっ子らしさを持ち続けていたのではないでしょうか?
歴史あるウィーンのカフェは、日本で知ることのできなかった大作曲家の素顔へと、想いをいざなってくれます。この素敵な空間を立ち去るのは名残惜しいのですが、そろそろアパートへ帰って、チェロを練習しなくてはいけませんね……「ツァーレン・ビッテ(お勘定をお願いします)!」
(東京有名百味会『百味』2007年8月号に寄せた「ウィーン便り②」)
◇ブラームスの舌鼓
ウィーンでの毎日の中で最もわくわくすることの一つは、日本ではおぼろげな輪郭しか持たなかった歴史上の大作曲家たちの息吹を感じられる瞬間です。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス……「音楽の都」ウィーンと重要な関わりを持った作曲家は挙げれば切りがありません。
私が今取り組んでいるブラームスもその一人で、チェロを弾いている時に限らず様々な発見があるので、音楽作品と、と言うよりむしろ、魅力的な人物との付き合いを深めていく楽しさを味わっています。
ブラームス記念室に展示されたスナップ写真の中の生き生きとした姿に驚き、中央墓地で安らかな眠りに祈りを捧げ……今でもあちらこちらで、この町を拠点とした偉大な作曲家に出会うことができます。
ブラームスが避暑に訪れたアウスゼー地方では、ピアノを弾く等身大のブラームス人形にも対面しましたっけ(このゆかりの地の音楽週間で第2番のソナタを演奏させて頂いたのは、忘れられない思い出です)。そしてウィーン楽友協会の小ホール「ブラームス・ザール」で、客席の傍らに飾られた胸像を眺めながら彼の作品を聴く時には、まるでブラームス自身がそこで耳を傾けているかのような厳粛な気持ちに満たされます。
ウィーンで暮らすブラームスは、かなりの食い道楽でした。親友に宛てた手紙の中で、この町を離れたくない理由の一つとして、「美味しいレストランの数々」を挙げている程です(ちなみに故郷ハンブルクのことは、別の手紙でウィーンと対比させ「オイスター・ロブスター共和国」呼ばわりしています)!
「グーラシュ(ハンガリー風シチュー)は絶品だし、トプフェンパラチンケン(クリームチーズ入りクレープ)も最高、ビールもワインも良い」と居酒屋の食事に舌鼓を打つブラームスの姿は、現代の陽気なウィーンっ子たちと何ら変わるところがありません。ウィーンでは、音楽だけでなく食生活を通しても、ブラームスを追体験することができるのです。
「もっと演奏を楽しまなくちゃ。音符の一つ一つには、家のように奥行きがあるからこそ、音楽に詳しくない人でも参加できるんだ。聴衆を前にすると、音楽を楽しめないって、一体どういうことなんだい?」と、ある指揮者を批判したブラームスの音楽観は、食べ物の好みと同様にウィーン的です。
毎日のようにオペラに、コンサートに、演劇に、気持ちの良い野外レストランでの食事にと飛び回り、「楽しむ」こと全てに貪欲なウィーンの人々を見ていると、彼らが時代を超えて音楽を支え続けてきた理由は、何よりもまず、それが理屈抜きに楽しいものだからではないだろうか、と思わされます。
作品に対する真面目さばかりを強調されてしまいがちなブラームスも、一方では居酒屋に腰を落ち着けてジプシーたちの演奏を愛で、音楽を、そして人生を謳歌していたのでした。
日本で「クラシックは敷居が高い」と感じる方が多いのは、遠い国の文化を輸入する過程で、風土や言語、人々の気質などと結びついた、より親しみやすい部分が抜け落ちてしまったためではないかと思います。ですから帰国公演をする度に、だんだんとクラシックに馴染みのないお客様からの共感が増してくるのは、大変嬉しいことです。
今回の帰国時には、チェロと一緒に是非、「人間としてのブラームス」も飛行機に乗せて帰りたいものだと願っています。長年の大食で育った彼の立派な太鼓腹が、エコノミーの座席に入りきるかどうかが、少し心配ではありますが――。
(東京有名百味会『百味』2007年5月号に寄せた「ウィーン便り」) |